唄を通じて災害を風化させない「あの日、活動」

最近の活動記録

【インド・コルカタ】マザーテレサの家 ボランティア活動 ②

【インド・コルカタ】マザーテレサの家 ボランティア活動 ②
マザーテレサの家 (孤児の家・死を待つ人の家etc..)
1950年 マザーテレサにより立ち上げられた「Missionaries of Charity 神の愛の宣教者会」
貧しい人の中の貧しい人の為に働くというポリシーで作られたのが[死を待つ人の家]
誰からも見向きされず、路上で死にゆく人に「せめて最期くらいは人間らしく愛を受けて欲しい」マザーテレサの思いは今も生き続ける。

【インド・コルカタ】
短い期間でしたが、マザーテレサの家にボランティア旅に行ってきました。

ミッション系の学校だった事もあり、小学生の頃からマザーテレサの伝記を何度も読み、育ちました。大人になってからもどこか頭の片隅にマザーテレサの存在があり、今回私なりにその答えを探しに行ったような気がしています。

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マザーテレサの家
【孤児院(シシュババン)】

乳児から12歳までの 健常(栄養失調)/障害孤児を
受け入れている施設

この施設が始まった当初は
道端に落ちている子供達を拾ってきて
栄養のある食事を与え育てるという目的で
身寄りのない子供達の施設として
始まったそうです。

現在 健常者の施設にいる子供達は
親元から離れていたり、近隣の路上等で
親兄弟と住んではいるが、
貧困で子供に食べさせてあげるものがなく、
デイホームのような形で
通っている子も多いとのこと。

私が派遣されたのは、
〈Special Needs Children 〉
重度の障害があり、産まれてまもなく
捨てられてしまった子供が保護されている
施設。

健常者の施設とは違い、
食事面だけでなく 貧困により障害児は育てられない、育てたところで働き手になり得ないという理由で、病院に置き去りにされたり、
親が連れてきたとしても、 二度と連れて帰らない
といった いわゆる孤児のケースが多い。

派遣先(重度障害孤児院) で一番最初にお願いされたお仕事は、
子供達を屋上(太陽の下)に運び、
遊ばせること。

言葉だけで聞くと 簡単な気がするけど、
その施設にいる子の殆どが
脳に重度の障害を持ち、歩くことや喋ることが
できない、中には盲目、難聴も患っている
子供達。

実年齢よりとても小さく見える子供達でも
小学校高学年ほどの年齢になれば
身体も随分と大きくなり、
自ら立ち上がることもできない彼らを
抱っこやおんぶして運ぶには
半端じゃない重量が腕や腰にかかる。。。

インド、コルカタ、
小学生の頃に沢山読んだマザーテレサの伝記が
頭から離れず、マザーテレサの施設、孤児院で働くという目的の為だけに 単身インドにやってきたわけだが、 正直なところ福祉や介護の知識なんて
皆無だし、病院や老人ホームなどで歌ったり、
歌の延長線でお話したりのボランティア経験が
あるくらいだった私。

子供を早く運んで!と
マーシー(施設で働く介護士さんのような女性達のことをそう呼ぶ。) に言われても、

目の前にいる 車椅子の大柄な子供をどうやって
持ち上げればいいのかが わからない。

とりあえず近づいて、
にこやかに話しかけたら
にこやかに微笑んでくれた。
首に手を回してねーなんて言って
お尻から持ち上げようとしたけど、
どうやっても立ち上がれない。

戸惑ってる私に気がついてか、
子供の顔が曇った。
身体を前後に大きく震わせ、
左手を徐ろにくわえ 歯を強く食いしばり
何やら不気味にギーギーっと音を発している。
身体も全身が強張り、足は攣ったかのように
硬直している。

よく見たら、強く噛みつきすぎている左手は
皮膚も爛れえぐられぐちゃぐちゃ。

途端に私はどうしようもなく
怖くなり逃げ出したくなってしまったのだ。

本当にごめんなさい。
だけど、「怖い」が 私の第一印象だった。

それを見兼ねたマーシーが
二人で運ぼう。
アンティー(これがボランティアスタッフの名称)は脇の下から持ち上げて。

もちろんエレベーターなんてものは
ないので そこから二人で子供を担いで
屋上にある お遊戯マットまで運んだ。

はじめから 打ち砕かれそうだった。
マザーテレサの家で働く為に
日本から飛んできたというのに、
現実を目の当たりにしたら、
どんな病気かもわからない子供に、
しかもどう考えても 怯えている私を 威嚇して
いるかのように見えて、噛みつかれそうで、
そうじゃなくても どしりと重い重量感の中
階段を登る途中、落としてしまうかも
しれない。 怖い。

でも そんな風に感じてしまった自分が
どうしようもなく 悲しかった。

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Special Needs Children の部屋には
30人ほどの子供がいて、
修道会のシスターやマーシー(後から知るのだが、ここで働いている介護職のマーシー達は皆、貧しい家の出で、安価なお金を貰える代わりに施設で働いている人が多い)以外に、
常時世界各国のボランティアが働いている。

長い人は2、3ヶ月毎日来ている人もいるようだが、 毎日この人数の子供のお世話をするには、
全員が休む暇もなく動き回っても
まだ手が足りずといった状況。

現状を目の当たりにして
しばし動けずにいた私だが、
打ち砕かれている暇もなく、
次から次へと用を頼まれる。

比較的大きな子を全員 屋上へ運び終えたら
その子達の座っていた車椅子や椅子も
全部 屋上に運びだし、日干し。

小さな子供達に食事と薬を与えたら、
ベビーベッドに寝かせて、
フロアを床掃除。

石の床の掃除方法がまたすごい。。
基本的にインドでティッシュのような
紙製品をみたことがない。
なので掃除ももちろんクイックルワイパー的な
ものがあるわけもなく、

バケツに水を汲んできて、
まず水をまく、洗剤をまく、
竹ぼうきのようなもので床をはく??
すると泡泡になり、、、
また水をまいて 最後にタオルで拭き取る。
途方も無い作業。

そして 紙がないということは
もちろんおむつも布おむつ。
いちいち全員をこまめにかえてあげる習慣はなく、 常にそこらじゅうが濡れている。

そんな場所でこの掃除方法。
素足で手袋もなく掃除するには
抵抗がありすぎる不衛生感だったが、
あまりにやることが多く
我を忘れて取り組んだ。

あれやこれや集中しているうちに
はじめに感じた恐怖感や罪悪感は
すっかり消えてなくなり、
掃除も終わり、
屋上から子供達を運び戻す時には、
不思議とすいすいっと(重量的にはだいぶ
よっこらっしょ、、、苦笑 ) 抱きかかえ、
子供のおもらしで着ている洋服がびしょびしょに
なっても、早く着替えようねー なんて
言って 一緒に楽しめるようになった。

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施設の1日は忙しい。
どの施設も特に午前中は忙しいみたい。
私は毎日午前中は 孤児院(シシュババン)
午後は死を待つ人の家(カーリーガード)で 働いていたので、 シシュババンの様子は午前中しか
わからないのだが、

上記に書いた流れの他に、
随時気づいた人が子供のおしめを替えたり、
薬や水を与える、食事、一緒に遊ぶ時間も
あるし、毎日膨大な洗濯物を洗って
干すという作業もある。

施設内の写真は禁止なので、
写真で様子を伝えることはできないけど、
上の写真で遠くに色とりどりの洗濯物が
干してあるところが、健常孤児の家。

子供達の小さな小さな洗濯物。
膨大な数を手洗い。(洗濯機なんてものはない)
消毒のためか、薪で沸かした大きなお釜のようなところで 洗濯物を一度煮て??
そのあと また水洗い。

おしっこは垂れ流し状態だし、
水がそもそも灰色。。。

それでこの洗濯 大丈夫なのか。。

薪で沸かすスタイルをどこでもかしこでも
やっているので、街中が黒い空気だし。

でもそんな環境にも
すっかり慣れてしまった。

マスクも消毒液もゴム手袋も
備えあればなんとやらで
しっかり準備していったが、
あの子供達を目の前にしたら、
顔を半分隠して、汚いものを触れるかのような
格好で接することなんて
できるはずもない。

目の前にいるのは、
小さくて可愛くて愛らしい ただの子供達。
自分だって みんなだって 同じ。
かつてはこの子達と一緒だった 小さな命。

生活にはお手伝いが必要で
自分の気持ちを伝えるには
とても不器用だけど、みんな同じ。
それはその子、その子の個性なのだから。

慣れない事や緊張が続いたけど
とてもすっきりとした疲労感。

やっぱりここへ来て良かった。
また明日この子供達に会えるのが楽しみで
ならない自分がいた。

【インド旅行記】つづく、、、

北野里沙の一言

本当の母親のような愛情は、
私には注げないかもしれない。
けれど全ての子供は、
この世に望まれて生まれてくる。
たとえどんな重いハンディを背負い生まれてきても、それはその子の個性の一つにすぎない。
みんなかつては彼らと同じ子供であり、誰かに支えられて生きてきたのだから。 北野 里沙

ここで唄ったレクイエムソング
The day of Tomorrow